@dexrain1916

俺のばあちゃんの話

幼い頃にアメリカ兵の男に連れて行かれたんだが、着いた先は男の家だった。男はばあちゃんに「これから君はここで暮らすんだ。僕は君の欲しいものややりたいことを叶えてあげられる。その代わり、君は家事をちゃんとするんだよ」と言った。
ばあちゃんは男の言う通りに家事を精一杯頑張り、男はばあちゃんに可愛い衣服等を与え外に連れて出掛けた。
終戦後、男はアメリカに帰ることになった。男は別れ際にばあちゃんに「僕は本当は戦争なんかしたくない。◯◯(ばあちゃんの名前)みたいに、みんな笑顔でいられればそれでいいんだよ。どうかそれを忘れないでほしい。元気でね」と伝え、日本を去っていった。

@TR-dv3pj

自分アラフィフ
  小学校の夏休みの宿題で「戦争のことをおじいちゃんおばあちゃんに聞いてみましょう」ってのあった。
でも、田舎過ぎるのと、農家だったから、暖簾に腕押し的な証言しかなかったなぁ。
  当時は戦争体験のドキュメンタリーやドラマもやってたけど、婆さんは茶を啜りながら「都会はあんなんだったんだろうね」で終了してた。

@先走魔羅男

会社の同僚のお爺さんの話
その人は満州に住んでたそうで戦時中にも関わらず現地の人と仲良くやってたそうな
日本が戦争に負けた時多くの日本人が現地の人に襲われた物を何もかも奪われていった中、お爺さんだけは沢山世話になったからとどうでもいい物だけしか持って行かれなかった
現地の人曰く「沢山世話になり仲良くなった貴方を傷つけるのは人として間違ってる。ただ周りの事もあるからいらない物だけ持っていく」と
日本に帰る時もそのお爺さんは現地の人の世話になり無事に帰国 お互いいつかまた会おうと約束したんだとか
90年代辺りにようやく中国に行く事が出来たのだけど自身はもう80超え、みんな生きてるだろうかと不安だったとか
そして現地に着き人々に話をしたら、なんと当時仲が良かった人達全員生きていてお爺さん感動で大泣きして抱きしめあったんだそうです
その後お爺さんが大往生するまでこの事を嬉しそうに語ってたそうです

@るり子-b4z

お嬢様育ちの祖母に、学校の課題で戦争中の話を聞こうみたいなインタビューをしたら「購読してたELLEっていう雑誌がパリから届かなくなった事だねぇ」って言われて絶句した。
戦争体験は本当に個人差ある…………

@taku3091

祖父が広島の原爆投下後に救助に行ったそうですが「あれはただの地獄じゃった」の一言くらいしか話してくれなかった

@aquacoten

大和はほぼ全員無くなってるからね。アベンジャーとかの機銃照射とか爆撃とか雷撃とかで。よく生きて帰ってきましたなその新郎のじいちゃん。長生きしてほしいです。

@ところで私のコンタクト知らん

ロシアの人と仲良くなった爺さん凄いな…
ラーゲリ見たんだけど、(あくまで映画の演技だからってのもあるんだろうけど)野球したり魚取ってる時ロシア兵もニコニコしてたから本当に酷いのは上官部だけだったのかな…

@丸山玲子-k4q

父は満鉄の関連会社で仕事していて現地召集。ある時具合が悪くて代わりに出兵してくれた部隊が全滅。父の身代わりに亡くなった方は鹿児島の方でシベリアから引き上げてからお墓参りに行ってました。
捕虜時代、満鉄で電気関係の仕事だったらしくてシベリアで捕虜の時、ロシアの将校の家の修理に呼ばれて帰りに白パンもらってた話しをしてました。ロシア人は優しかったと言ってました。

@ねこる-z1c

私の祖母は戦時中まだ3歳だったので、雨で防空壕に水が溜まったときはみかん用の小さい籠に乗せられてぷかぷか浮いていたそうです。かわいいw

@バクヤ-b2r

親戚のじいさんはシベリア送りになったが生還した者のひとり
技術者だった為重宝され過酷な労働は強いられなかったしこっそり家族への手紙も書かせてくれたとか
ただ仲間はバタバタ死んでいったとも言っていた

@tansbncc.1501

私の母は戦争後期、女子高生で毎日
今の東京宝塚劇場に風船爆弾を作りに通っていたそうです
休み時間に向かいの帝国ホテルで軍人さんと芸者さん達が楽しそうに歌い踊っているのを見て
あーこの戦争は負けるだろうなぁと確信していたらしい

@nrtym905

「俺はな、話が上手くて人を笑わせるのが得意だったから上官のお気に入りなって戦地には行かなかった!」って自信満々に言ってた曽爺ちゃん思い出した。
爺ちゃん曰く、本当に話が上手かったらしく頭もそこまで良くなく、運動も得意ではなかったけど上官や仲間たちには人気で終戦後も毎年会いに来てくれる人もたくさんいたらしい。

@Ahehxbhw

俺の大叔父は特攻の教官(永遠の0の宮部教官みたいな感じ)をやっていて、終戦直前教え子たちが皆特攻で亡くなりいよいよ自分たちも特攻するみたいなところで戦争が終わったらしい。老後は零戦とかの模型を自作していてたまに家に行くとその模型をくれたりもした、最後までボケずに真面目な人だった。

@イキイキ乳酸菌-m2j

爺ちゃん、めちゃくちゃ食い意地というか食に関しての話がめっちゃ多かった
煮魚嫌いだからそこそこの階級なのをいい事に、腹壊してもいいから!って刺身にしてもらったりわがまま言ってたらしい笑
それでも末期とかは多分食料なくてカエルもヘビも猿も食べたって言ってた。あと南方のバナナは小さいのが美味い!とか。ただ話す時悲壮感なくて「あれ美味かったな〜」みたいなノリだった笑
本当に胃腸が強くて死ぬ前日までカルビ食べてた。水木しげるさんとかもそうだけど、生き残った人ってめちゃくちゃ生命力がすごい
と思う
孫の私はめちゃくちゃ胃腸が弱いけど笑

@達郎大石-l1k

爺さんの弟が某缶詰め会社の社長の車に轢かれた。
そのおかげで爺さんが戦地に行く時に社長が「15で親を亡くして農家の家長だから危なくない所へやってくれ」と口添えがあって、シナの安全な馬番やってた。
終戦後に婆さんと結婚したが、婆さんサイドから「あいつに嫁がす為にお茶や舞踊、琴を習わせた訳じゃない!」なんて話を聞いたな…(笑)

@ぽん-f1t

平和を望むなら戦争の話を聞かないとな

@南東たたみ

動画中もコメ欄も、血の通った生々しくも素晴らしい証言ばかりです、ネット続く限り語り伝える価値があります

@メイJapan

うちの祖父は料理がうまかった。
あの世代で男性が料理するなんて珍しいなと思っていたけれど、軍隊で料理を担当していたからだと知った。

@sacabambaspis114

もう亡くなったひいおじいちゃんやけど戦争で片足無くなったけど93までボケることなく生きてはったらしい
戦争は嫌やな

@hayakawayuuna9553

ワイの曾祖父さんは中国戦線で歴戦を重ねた部隊にいた。敵兵を目視した事はほとんどなく丘の上にテキトーに擲弾筒をぶっ放してたらしい。行軍中に狙撃されるものの足元に跳ねただけで助かったり迫撃砲が至近距離に着弾するものの、ちょっとした段差に腰掛けてた曾祖父さんだけ無傷だったりと運のいい人だった。陸軍航空隊はカッコよかったとか従軍中の話は面白おかしく話してくれたけど、シベリア抑留の話だけはほとんどしてくれなかった。本当に辛かったんだろう。従軍中は毎日毎日帰りたい帰りたいと思っていたと言っていたけど、シベリアの事を少し語った後に「ワシは生きて帰ってしまった…」とポツリと言った事は未だに覚えている。兵長まで務めて古参兵ではあったものの、職業軍人ではなかった曾祖父さんもやはり日本兵だったんだなと実感した一言だった。
シベリアからなんとか帰ってきてからは、しばらく休めばいいのにすぐに田畑を耕し仕事をした人だった。やっぱ明治生まれの人は凄いよ。
ちなみに曾祖父さんのいた師団は、最後関東軍所属だったけど、戦闘経験皆無な部隊ばかりになった関東軍の中では実戦経験豊富な数少ない師団だった。